ショーペンハウアー『読書について』~本なんて読まずに自分で考えろ!名言の宝庫~

Literature

『読書について』(光文社古典新訳文庫)は、「自分の頭で考える」「著述と文体について」「読書について」の三篇からなり、いずれもドイツの哲学者アルトゥール・ショーペンハウアーの著作『余録と補遺』から訳出されたものです。

1851年に出版された『余録と補遺』は、名前の通り、ショーペンハウアーの主著である『意思と表象としての世界』の注釈という位置づけで、入門書とも言えます。
また、『余録と補遺』はドイツでベストセラーとなり、それまであまり注目されていなかった『意志と表象としての世界』や彼の思想が世間に注目されるきっかけとなりました。

読書や書くことに関する三篇が収録された、本書『読書について』では、良い本と悪い本、良い文体とは何かなど、次々にぶった切っていきます。

ニーチェやトルストイなど後世に多大な影響を与えたショーペンハウアーの読書術、そして著述スタイルは一体どのようなものなのでしょうか。読書好きの人にこそ読んで欲しい一冊です。

ショーペンハウアー先生の言葉を紹介していきます。

自分の頭で考える

読書好きには辛辣な本書はいきなりこんな一文が出てきます。

自分の考えを持ちたくなければ、その絶対確実な方法は、一分でも空き時間ができたら、すぐさま本を手に取ることだ。これを実践すると、生まれながら凡庸で単純な多くの人間は、博識が仇となってますます精神のひらめきを失い、またあれこれ書き散らすと、ことごとく失敗するはめになる。

読書好きにとっては、そんなことはないと反論したくなる様な一文ですよね。

少々過激な一文ですが、なぜ読書は精神のひらめきを失わせてしまうのか、ショーペンハウアーはこう言います。

読書は自分で考えることの代わりにしかならない。自分の思索の手綱を他人にゆだねることだ。

本を読むとは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ。

普段そんなことを考えて本を読まないと思いますが、言われてみれば当然ですよね。

他者が考え、書いたものを私たちは読むわけですから、そこに書いてあることは自分が考えたことではありません。

自分の思索、つまり自分の頭で考えろとショーペンハウアーは繰り返し言っています。

しかし誤解してはいけないのは、読書そのものを否定しているわけではありません。

自分で考える人は、まず自説を立てて、あとから権威筋・文献で学ぶわけだが、それは自説を強化し補強するためにすぎない。

つまり正しい読書とは、先に自らの考え思考体系があり、その補強のために本を読むことだとショーペンハウアーは主張します。

この自分の頭で考えるという姿勢は、本書を一貫するテーマなのですが、なぜそこまでこだわるのでしょうか。

それは、私たちが本当の意味で理解できるのは、自分の考えだけだからです。

自分の頭で考えてたどりついた真理や洞察は、私たちの思想体系全体に組み込まれ、全体を構成するのに不可欠な部分、生き生きとした構成要素となり、みごとに緊密に全体と結びつき、そのあらゆる原因・結果ともに理解され、私たちの思考方法全体の色合いや色調、特徴を帯びるからだ。

少し難しい文ですね。僕は、自分の頭で考えるというのはとても大変な行為であり、それだけで価値があると解釈しました。

読書では、著者の考えや情報を簡単に摂取することができます。しかしその考えや意見というのは、著者がそれまでに行ってきた思考の氷山の一角にすぎません。1のことを書こうと思ったら10、人によっては100の思考をしないといけないわけです。

一つのことに辿り着くまでに行ったいくつもの思考こそが、私たちの思考体系、そして個性を生み出すのだと。そして読書はその手助け程度のものにしかならないと。

どんなにたくさんあっても整理されていない蔵書より、ほどよい冊数で、きちんと整理されている蔵書のほうが、ずっと役に立つ。同じことが知識についてもいえる。いかに大量にかき集めても、自分の頭で考えずに鵜呑みにした知識より、量はずっと少なくとも、じっくり考え抜いた知識のほうが、はるかに価値がある。なぜなら、ひとつの真実をほかの真実と突き合わせて、自分が知っていることをあらゆる方面から総合的に判断してはじめて、知識を完全に自分のものにし、意のままにできるからだ。

すぐれた文体とは

結論から言ってしまうと、優れた文体についてショーペンハウアーはこのように言っています。

すぐれた文体であるための第一規則、それだけでもう十分といえそうな規則は、「主張すべきものがある」ことだ。これさえあればやっていける。

文体というと文章術などのテクニックの話が多いですが、ショーペンハウアーはまず「主張」が大事だとします。

主張があることは大前提として、その価値はどのように決まるのかも考察しています。

思想の価値を決めるのは、素材か、表現形式だ。素材とは「何について考えたのか」であり、表現形式とはどう素材に手を加えたのか、「どう考えたのか」だ。

素材とは本でいうところのタイトルやテーマにあたります。森羅万象の中から何に着目し扱うのかということですね。

そして表現形式とは、扱うテーマに対してどう考えたか、答えるのかということです。

そして「どう考えたのか」こそが、より重要であると言います。

精神の産物、著作の価値をさしあたり評価するのに、必ずしもその書き手が「何について」「何を」考えたかを知る必要はなく(そうしたら全作品を通読せねばなるまい)、まずは「どのように」考えたかを知れば、じゅうぶんだ。この「どのように」考えたか、つまり思索の根っこにある特徴と一貫したクオリティーを精確にうつし出したのが、文体だ。

特に文学などの作品価値が表現形式で問われる分野においては、素材によって価値を生み出そうとする企ては排除すべきだと主張しています。

正論だけども厳しい意見の多いショーペンハウアーですが、物書きに対してこんなアドバイスをしています。

ひたすら真摯に仕事に向かい、わずかばかりのありふれたことでも、かれらが実際に考えたことを、考えた通りに、とにかくそのまま伝えようとするなら、読むに堪える本、分相応の世界で、それなりにためになる本が書き上がるだろう。

良書を読むコツ

読書は自説の補強のためとするショーペンハウアーだけあって、読書のコツはいかに読まないですますかだと言います。特に悪書を読むんでしまうことは避けなければならないと。

良書を読むための条件は、悪書を読まないことだ。なにしろ人生は短く、時間とエネルギーには限りがあるのだから。

良書を読むために、悪書を読まない。上手いこと言いますよね(笑)

具体的には、大衆受けするがすぐに寿命がきてしまうような本は避け、あるゆる時代のあらゆる国々の偉大な人物の作品を読むことを勧めています。

私たちを真にはぐくみ、啓発するのはそうした作品だけであると。

読書好きな人だと、読んだ本をすべて覚えようとする人いますよね。

そんな人に対してはこんなことを言っています。

目的なら、だれでも持っているが、思想体系めいたものを持つ人は、ごくわずかだ。思想体系がないと、何事に対しても公正な関心を寄せることができず、そのため本を読んでいても、なにも身につかない。なにひとつ記憶にとどめておけないのだ。

目的はあるが思想体系がない人が本を読んでも、記憶できないし身に付かないよってわけです。

めちゃくちゃ厳しいですよね。。
繰り返しますが、ショーペンハウアーにとっては読書は補助的なものなんです。

おわりに

読書好きにはしんどい言葉が続く本書ですが、ショーペンハウアーが最も言いたかったのは、現実世界で考えることの大事さだったのではないでしょうか。

少なくとも読書のために、現実世界から目をそらすことがあってはならない。読書よりもずっと頻繁に、現実世界では、自分の頭で考えるきっかけが生まれ、そうした気分になれるからである。もっと詳しく言うと、具体的なもの、リアルなものは、本来の原初的な力で迫ってくるため、ごく自然に思索の対象となり、思索する精神の奥底を刺激しやすい。

若者の読書離れが叫ばれて久しい昨今では、本を読むこと自体が良しとされる風潮があります。自らを向上させたいという思いがあって、行動していることは素敵なことだと思います。

ただ、いつの間にか本を読むことが目的となっていないでしょうか?

もし思い当たる節があるのなら、本書を読んでなぜ読書をするのかを考えてみてはいかがでしょうか。辛辣な文もありますが、自らをの姿勢を見つめ直すことができると思います。

それでは、僕が本書で一番好きな一文を載せて終わりにします。
最後まで読んで頂きありがとうございました。

学者、物知りとは書物を読破した人のことだ。だが思想家、天才、世界に光をもたらし、人類の進歩をうながす人とは、世界という書物を直接読破した人のことだ。

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