『キッチン』は、1988年に福武書店から出版された、吉本ばななの短編集です。
『キッチン』、『満月 キッチン2』、『ムーンライト・シャドウ』の三つの短編からなります。
この短編集『キッチン』は、1989年の年間ベストセラーの第二位を記録しています。
第一位は、同じく吉本ばななの『TUGUMI』なので、1989年は彼女の作品が大流行したんですね。
一人の作家の作品が上位二つを占めるというのは、まずありませんよね。当時、それほど影響を与えた作家だということが分かります。
僕は、友達に勧められたのをきっかけに『キッチン』を読んだのですが、村上春樹と似た独特な世界観を持つ作家だなと感じました。
具体的には、文体がとても独特でオリジナリティがあります。村上春樹と同じく、読むとこれは吉本ばななの作品だとすぐ分かるような文体です。
短編集と言いまいたが、最初の二つ『キッチン』と『満月 キッチン2』は、明確な続編となっています。この二つについて、簡単にですが考察、解釈を書いてみます。
それでは、あらすじから!
あらすじ
桜井みかげは祖母と二人暮らしをする大学生。
両親は若死にし、中学に上がる頃に、祖父も死んでしまう。
それからは、祖母と二人で暮らしてきた。
ついに祖母も死んでしまう。
しかし、みかげは祖母が亡くなったという事実を上手く呑み込めない。
そんなある日、祖母の行きつけの花屋でアルバイトをしている、雄一の家で暮らすこととなる。
雄一とその風変わりな母親との居候生活を通して、みかげは人間の死と生に向き合っていく……。
人間はひとりぼっちな生き物

私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。
『キッチン』といえば、この冒頭です。
みかげにとってキッチンは、自らの居場所、心の拠り所を表します。
みかげは、家族をあまりに早く失ってしまったため、精神的な強さの裏に淋しさを抱え、人間の生に対する諦めの様なものを持っています。
いつか必ず、誰もが時の闇の中へちりぢりになって消えていってしまう。
死に囲まれて生きてきた彼女にとって、生を感じさせる寝室などは、返って死を想起させ落ち着きません。キッチンは、みかげにとって、生と死の蝶番になる様な場所なんだと思います。
私は待っていたのかもしれない。今までのことも、これからのこともしばらくの間、忘れられる寝床だけを待ち望んでいたのかもしれない。となりに人がいては淋しさが増すからいけない。でも、台所があり、植物がいて、同じ屋根の下には人がいて、静かで……ベストだった。
台所というのは、死をあまりにも身近に感じている彼女にとって、死の気配を感じることのなく落ち着ける空間です。
「となりに人がいては淋しさが増すからいけない」なんて、みかげの自立した強さをよく表しているなぁと思います。彼女にとって、淋しさというのは他人に埋めてもらう感情ではないんですね。あくまでも自分の足で立とうとする。それが彼女の基本姿勢であり、強さです。
もっともっと大きくなり、いろんなことがあって、何度でも底まで沈み込む。何度も苦しみ何度でもカムバックする。負けはしない。力は抜かない。
死の先に生まれる愛

雄一の母、えり子さんが殺されてしまう『満月 キッチン2』では、死を乗り越えた二人が愛を見つける様が描かれています。
雄一は、祖母が死んだ後のみかげのように、母親の死というものを現実のこととして受け止め、理解することが中々できません。雄一は、みかげに母の死を連絡することもできず、酒を飲んだりして、一人ぼっちになってしまったという現実から逃げ続けます。
えり子さんの死は、もちろんみかげにも大きなショックを与えます。しかし、同じ経験をしているみかげには、雄一の心境が手に取る様に分かるんですね。
みかげは雄一のクラスメイトに、雄一との関係を「中途半端な関係」と非難されます。
また、「恋愛っていうのは、人が人の面倒をみる大変なこと」とも言われます。
確かに、みかげと雄一は、互いに向かい合い支え合う二人ではありませんでした。しかし、二人は常に同じ物を見てきました。みかげの祖母の死、田辺家での三人の生活、そしてえり子さんの死。あまりにも大きく重いものを共有してきました。
そんな二人の関係は、みかげにとって、本当の男女です。
……私と雄一は、時折漆黒の闇の中で細いはしごの高みに登りつめて、一緒に地獄のカマをのぞき込むことがある。目まいがするほどの熱気を顔に受けて、真っ赤に泡立つ火の海が煮えたぎっているのを見つめる。となりにいるのは確かに、この世の誰よりも近い、かけがえのない友達なのに、二人は手をつながない。どんなに心細くても自分の足で立とうとする性質を持つ。でも私は、彼のこうこうと照らされた不安な横顔を見て、もしかしたらこれこそが本当のことかもしれない、といつも思う。日常的な意味では二人は男と女ではなかったが、太古の昔からの意味合いでは、本物の男女だった。しかし、どちらにしてもその場所はひどすぎる。人と人とが平和をつむぐ場所ではない。
みかげにとって、愛とは人が人の面倒をみることではなく、人生の無意味さや世界の不思議を共に見ようとすることです。苦しいことも淋しいことでも、もちろん楽しいことも。
しかし、えり子さんまでもが死んでしまい、みかげと雄一が二人で覗き込んでいるのは死です。死を見ている限りは、雄一のクラスメイトが言った通り、二人は「どこにも行けない」のです。
雄一は母親が死に、この世に一人取り残されてしまったという現実から逃げようとしますが、そんな彼にみかげは言います。
「私たちはずっと、とても淋しいけどふわふわして楽なところにいた。死はあんまり重いから、本当はそんなこと知らないはずの若い私たちはそうするしかなかったの。……今より後は、私といると苦しいことや面倒くさいことや汚いことも見てしまうかもしれないけど、雄一さえもしよければ、二人してもっと大変で、もっと明るいところへ行こう。元気になってからでいいから、ゆっくり考えてみて。このまま、消えてしまわないで。」
最後、雄一がその告白に応えて、物語は終わります。
みかげと雄一の二人の物語は、えり子さんの以下のセリフに集約されています。
「まあね、でも人生はいっぺん絶望しないと、そこで本当に捨てらんないのは自分のどこなのかをわかんないと、本当に楽しいことがなにかわかんないうちに大っきくなっちゃうと思うの。」
私たちは、普段の生活で死を意識することはあまりないと思います。これは、みかげに言わせると、ふわふわして楽なところです。しかし、本来的に死というのは、生の対極にあるのではなく、生と隣り合わせに常に存在するものです。
当たり前ですが、人はいつ死んでもおかしくありません。そんな死の気配を持つ人だけが、今ある生を大事にできるのではないでしょうか。みかげは死を経験し、それを受け止めたことにより、強くそのことに気づきます。
どうしても、自分がいつか死ぬということを感じ続けていたい。でないと生きている気がしない。だから、こんな人生になった。
闇の中、切り立った崖っぷちをじりじり歩き、国道に出てほっと息をつく。もうたくさんだと思いながら見上げる月明かりの、心にしみ入るような美しさを、私は知っている。
みかげと雄一の二人は、死を通して絶望します。しかし、返ってそのことにより、二人にとって捨てられないもの、つまり愛に気づきます。
おわりに
彼女の作品は30か国以上の国で読まれ、特にイタリアでは、『キッチン』は大ブームを巻き起こしたみたいです。村上春樹と並んで、海外でも評価されている日本人作家と言われています。
また、本記事では扱いませんでしたが、『ムーンライト・シャドウ』は、日本大学芸術学部の卒業制作みたいです。1987年の日本大学芸術学部長賞(長い)と第16回泉鏡花文学賞を受賞しているみたいです。すごいですね。。
死という重いテーマにも関わらず、みかげの強さと著者のポップな文体によって、物語が明るく見えるのがとても素敵な作品だなと思います。
えり子さんの、「一度絶望しないと本当に楽しいことは分からない」という言葉には唸らされました。。
私たちは、あまりにも多くの現実と繋がっているので、本当に大事なものは、絶望してからしか分からないのかもしれませんね。
それにしてもみかげは魅力的な女性だなぁと思います。
女性が魅力的な作品に名作が多い様な気がします。
気のせいかな?
それでは、今回はこの辺で。
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