村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』あらすじと解説~本当の自分ってなんだろう?~

Literature

『ダンス・ダンス・ダンス』は村上春樹の6作目の長編小説です。

『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』の三つからなる青春三部作(呼び方はいくつかあるみたいです)の続編という位置づけです。

特に『羊をめぐる冒険』との関係性が多く、「いるかホテル」や「特殊な耳の彼女(キキ)」などが物語に登場します。もちろん本作だけでも十分に完結した内容になっていますが、『羊をめぐる冒険』と続けて読むと、より深く物語のダイナミズムに触れることができます。

そんな本作品のテーマは「自分探し」です。

もう少し具体的に言うならば、「他者を通しての自己の発見」です。

「本当の自分って何だろう?」という人生の普遍的かつ根源的な問いに対して、示唆に富む様々な発言に溢れています。

それでは早速あらすじからいってみよう!

あらすじ

『羊をめぐる冒険』から四年後、1983年。

「僕」は友人の鼠を失い絶望しながらも、フリーランスのライターとして社会復帰を果たし、意味なんてない仕事をこなす毎日。

いるかホテルに戻った「僕」は、羊男との再会する。

そこで、自分が失ったもののために、現実と結び付いていないことを告げられる。

「僕」が再び現実と結び付く方法はただ一つ。

音楽の続く限り踊ること。それもとびっきり上手く。

舞台は、好景気に沸く「高度資本主義」社会。

「僕」はタフでハードな世界を相手に、複雑なステップを踏み、スリリングな現実を踊り始める。

雪の降りしきる札幌から、ホノルルのダウンタウンまで。

ここから僕の本作品の解釈を書いていきます。
(ネタバレ注意)


















心の震えの喪失

僕が何とか自分の生活を維持していること。でも何処にも行けないこと。何処にも行けないままに年をとりつつあること。誰をも真剣に愛せなくなってしまっていること。そういった心の震えを失ってしまったこと。何を求めればいいのかがわからなくなってしまっていること。

「僕」は羊男に再開し、心の震えを失ってしまったこと、そして何を求めればいいのか分からなくなってしまったことを伝えます。

「僕」の自分探しの物語は、この羊男との再開から始まります。

「僕」はなぜ心の震えを失ってしまったのか。

それは、「僕」が自分の半分でしか生きていない、非現実的な人間だから。そして現実との接点となっていたものを次々に失ってしまったからです。

『羊をめぐる冒険』から引用します。

「それはあなたが自分自身の半分でしか生きてないからよ」

「人間をおおまかに二つに分けると現実的に凡庸なグループと非現実的に凡庸なグループにわかれるが、君は明らかに後者に属する。これは覚えておくといいよ。君の辿る運命は非現実的な凡庸さが辿る運命でもある」

『ダンス・ダンス・ダンス』において非現実とは、現実世界に対して並行して存在するパラレルワールドの様な存在として、こちら側とあちら側という表現をされています。

「ここにあるのは、あっちとはまた違う現実なんだ。あんたは今はまだここでは生きていけない。ここは暗すぎるし、広すぎる。あんたにおいらの言葉でそれを説明することはむずかしい。それにさっきにも言ったけれど、おいらにだって詳しいことはわかっていないんだ。ここはもちろん現実だよ。こうしてあんたが現実においらと会って話をしている。それは間違いない。でもね、現実はたったひとつだけしかないってわけじゃないんだ。現実はいくつもある。現実の可能性はいくつもある。おいらはこの現実を選んだ。何故なら、ここには戦争がないからだよ。そしておいらには捨てるべきものは何もなかったからだよ。でもあんたは違う。あんたには生命の温もりがまだはっきりと残っているんだ。だからこの場所は今のあんたには寒すぎる。ここには食べ物だってない。あんたはここに来るべきじゃないんだ」

非現実とは、観念や一般論などの実体から離れた、幻想の世界です。

『羊をめぐる冒険』のキキの言葉にあるように、「僕」は半分で現実世界を生きていますが、残りのもう半分は非現実世界にあります。

429 Too Many Requests

羊男は、このまま現実との繋がりを失い続けると、「僕」は幻想の世界でしか生きることができなくなること。そして、「僕」が現実世界と結びつき留まるためには、踊るしかないと忠告します。

「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言ってることはわかるかい?踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなこと考えだしたら足が停まる。一度足が停まったら、もうおいらには何ともしてあげられなくなってしまう。あんたの繋がりはもう何もなくなってしまう。永遠になくなってしまうんだよ。そうするとあんたはこっちの世界でしか生きていけなくなってしまう。どんどんこっちの世界に引き込まれてしまうんだ。だから足を停めちゃいけない。どれだけ馬鹿馬鹿しく思えても、そんなこと気にしちゃいけない。きちんとステップを踏んで踊り続けるんだよ。そして固まってしまったものを少しずつでもいいからほぐしていくんだよ。まだ手遅れになっていないものもあるはずだ。」

羊男の言うダンスとはもちろんメタファーで、現実と向き合い生きるということです。

現実、そして生きる意味なんてものは考えずに、自らのステップを踏んで精一杯動く。周りが関心するくらいに。

つまり、羊男が言っているのは、現実性の回復を通して自己を回復するということです。

これが本作品の大事なテーマです。

自分の影法師

物語終盤、キキは「僕」に言います。

「あなたは自分の影法師をパートナーとして踊っていたのよ。」

これは物語のキーとなる大事な言葉です。

「僕」は現実性の回復のために最後まで踊り続けたわけですが、「僕」は出会った人たちの中に自分を見出すことで現実性を回復するのです。

それが、「他者を通しての自己の発見」ということです。

本作では、メイやユキ、ディックノース、五反田君など魅力的な人物が現れ、そして去っていきました。

「僕」は彼らとの対話を通して、彼らの中に自己の断片を見出し、現実性を取り戻していったのです。

メイの死が僕にもたらしたのは古い夢の死と、その喪失感だった。ディック・ノースの死は僕にある種の諦めをもたらした。しかし五反田君の死がもたらしたのは出口のない鉛の箱のような絶望だった。

つまり、「僕」が失った人たち(死んでしまった人)は、「僕」が彼らの中に見出した自己の断片の消失を表しています。

自己の発見と消失を乗り越え、「僕」はあることに気づいていくのです。

自分探しというと、自分の中に本当の自分を見つけるというイメージが強いと思います。

しかし本作品の「僕」は、他者との関係から自己を見出し、再形成していきます。

特に、ユキと五反田君との対話は、「僕」に大きな影響を与えます。

ユキ

ユキは、「僕」が失ってしまった「心の震え」を呼び起こします。

「どうして僕は君といるのが好きなんだろう?歳もこんなに違うし、共通する話題だってろくにないのに?それはたぶん君が僕に何かを思い出させるからだろうな。僕の中にずっと埋もれていた感情を思い起こさせるんだ。僕が十三か十四か十五の頃に抱いていた感情だよ。」

「君と一緒にいると、時々そういう感情が戻ってくることがあるんだ。そしてずっと昔の雨の音やら、風の匂いをもう一度感じることができる。すぐそばに感じるんだよ。そういうのって悪くない。それがどれほど素敵なことかというのは君にもそのうちわかる」

ユキは、特殊な予知能力のようなものを持っているために、学校でイジメにあい、不登校になってしまっています。学校内では問題児扱いをされています。

加えて、両親は自分のことしか考えておらず、友達も一人もいない複雑かつ劣悪な家庭環境です。

「僕」はそんなユキに、音楽から学校、そして死の話に至るまで、様々な自分語りをします。

「本当にいいものはとても少ない。ロック・ミュージックだってそうだ。いいものは一時間ラジオを聴いて一曲くらいしかない。あとは大量生産の屑みたいなもんだ。でも昔はそんなこと真剣に考えなかった。何を聞いてもけっこう楽しかった。若かったし、時間は幾らでもあったし、それに恋をしていた。つまらないものにも、些細なことにも心の震えのようなものを託することができた。僕のいってることわかるかな?」

「人というのはあっけなく死んでしまうものだ。人の生命というのは君が考えているよりずっと脆いものなんだ。だから人は悔いの残らないように人と接するべきなんだ。公平に、できることなら誠実に。そういう努力をしないで、人が死んで簡単に泣いて後悔したりするような人間を僕は好まない。個人的に」

このようにユキと対話し、その若さや美しさに触れ、その繊細な心を理解しようとします。

「僕」はユキに自らの価値観や考え方をありのままに話すことにより、「僕」は自分が同じ年の頃に抱いていた感情、「心の震え」を取り戻していくのです。

人に何かを与えようとするためには、相手の目線に立ってみることが大事です。

特に子供や年下の目線に立つということは、過去の自分との対話という面を含んでおり、それによって得ることができるものもたくさんあるはずです。

人間は何も上の者から何かを教えられ、与えられた時にのみ学ぶわけではありません。

僕は「僕」とユキとの対話のシーンを通してそんなことを感じました。

五反田君

僕は五反田君が好きだったのだ。彼は僕の唯一の友人であり、そして僕自身だった。五反田君は僕という存在の一部だった。

そう、五反田君は僕自身なのだ。そして僕は僕自身の一部を失おうとしているのだ。

作品中に明確に言われているように、五反田君は「僕」の一部を表しており、彼の死は「僕」の中のある部分を失うことを意味します。メイやディックノースの死とは、違う意味を持ちます。五反田君は「僕」の一部なのです。

それでは、五反田君は「僕」という存在のどんな一部を表すのか?

五反田君は、非現実(幻想世界)で生きるもう半分の「僕」を表しています。

五反田君は、マセラティに乗り高級マンションに住んでおり、一見不満などない成功者に見えます。

しかし彼の生活、人生においては選択肢というものはありません。

借金を返すために仕事をし、本当に愛する人とは外部のしがらみで一緒になれない。

「幸運だったことは認めるよ。でも考えてみたら、僕は何も選んでいないような気がする。そして夜中にふと目覚めてそう思うと、僕はたまらなく怖くなるんだ。僕という存在はいったい何処にあるんだろうって。僕という実体はどこにあるんだろう?僕は次々に回ってくる役回りをただただ不足なく演じていただけじゃないかっていう気がする。僕は主体的になにひとつ選択していない」

現実の五反田君は、出口のない袋小路を彷徨っているのです。

そんな彼は、世間のイメージというものを常に背負い、自分の実体が分からなくなってしまいます。

「すごく疲れる。頭痛がする。本当の自分というものがわからなくなる。どれが自分自身でどれがペルソナかがね。自分を見失うことがある。自分と自分の影の境界線が見えなくなってくる」

「僕」と違い五反田君は「システム」に過度に適応できてしまったため、本当の自分と演技している自分が乖離していってしまったのです。

この二つの自分の乖離によって、彼は破壊的な衝動に駆られるようになり、最後は自分自身を破壊(自殺)してしまいます。

片方の五反田君がもう片方を飲み込み殺してしまった。
そんな解釈もできると思います。

「僕」と非現実の繋がりを表していた五反田君の死によって、「僕」の非現実との繋がりは失われることとなります。

つまり、非現実で生きるもう片方の「僕」の消失を表しています。

彼の死は「僕」に深い絶望を与えましたが、それにより「僕」はあることに気づきます。

それは、今なお生きる生、命を大事にするということです。

非現実との繋がりを完全に失ったことで、現実に今なお残るものに心から向き合えるようになったのです。

「僕」はユミヨシさんを強く求めることができるようになり、現実世界に留まることに果たします。

現実だ、と僕は思った。僕はここにとどまるのだ。

おわりに

さて、いかがだったでしょうか。

話の展開は複雑で寄り道が多く、メタファーも多い『ダンス・ダンス・ダンス』は、決して解りやすい物語とは言えません。

しかし、「自分探し」という誰もが一度は経験したことのある感情を、生々しく味わえる作品です。

僕が個人的に一番好きな作品でもあります。

まだ読んだことがないという方は、主人公の「僕」と一緒に複雑なダンスを踊ってみてはいかがでしょうか。

オドルンダヨ。オンガクノツヅクカギリ。

コメント

  1. […] […]

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