ル・コルビュジェ『建築をめざして』要約と考察-モデュロールや5原則の原点がここに

Architecture

『建築をめざして』は、フランスの建築家ル・コルビュジェが、1920〜21年に投稿した記事を、1つにまとめたものです。



コルビュジェが書いたいくつかの本の中でも、最も有名かつ重要とされているのが本書であり、「住宅は住むための機械である」という文言は、建築学生ならば誰でも聞いたことがある言葉です。

一方で、実際に本書を手に取ったという人は、そう多くないと思います。

そんな本書は一体どんな内容なのか。

「住宅は住むための機械である」

この言葉の裏側を考察していきます。

工学技師の美学と建築

美しい形、さまざまな形、幾何学的な原理による統一。深いところでの調和の伝達、それが建築である。

コルビュジェは一貫して、建築の美は幾何学に基づいた「初源的な形」の上でのみ成り立つと主張します。

初源的な形とは具体的に、立方体、円錐、球、円筒や角錐などの曖昧さのない形のことで、これらこそが美しい形であり、装飾は低級のものだとします。

なぜなら、初源的な形は私たちを取り巻く自然の法則、つまり重力や力学の法則に従っていて、私たちに宇宙との調和を感じさせるからです。

私たち自身も自然の産物なのだから、自然の法則に則ったものの方が親しみを感じやすいでしょ、ってことです。

そしてコルビュジエは、現代においてその意味で建築をしているのは、建築家ではなく工学技師であると言います。

工学技師は、役に立つものを作るという概念から、初源的な形を使い、経済的な基準に従って物を作ります。

工学技師は今はあまり使わない言葉ですが、今流に言うと工学のエンジニアと言ったところでしょうか。

反対に、昔の建築家は今の建築家と違い、装飾などの美術的デザインを主に担っていました。ヨーロッパの建築の歴史は様式の歴史とも言え、建築家の仕事も、装飾に重きが置かれていました。

工学技師の作品の例としては、アメリカのサイロや工場をあげています。

つまりコルビュジェは、産業革命によって生まれた現代の建築である工場は、それを作る工学技師は意図していないにも関わらず、自然法則に則った高度な芸術を体現していると言っているのです。

そしてこれからの建築も、工学技師のような精神を持って行われるべきだと主張します。

住宅は住むための機械である

幾何学こそが私たちに調和をもたらす高等な芸術であるというところから、それを実際の建築計画にどう落とし込んでいくかに話は進みます。

それまでの様式主義を批判するコルビュジェは、装飾目的のための生産品ではなく、一般の生産品の中にこそ時代の様式は存在すると言います。

一般の生産品は、比例とボリュームと材質による表現からでき上がり、その中には数による秩序があるからだと。

コルビュジェはその例として、船をあげます。

もし、一瞬でも運輸の道具だという考えを伏せて新しい目で船舶を眺めるならば、これが大胆不敵な、秩序正しい、調和した、静かで、神経質で、力強い美しさのものであることを感じるだろう。

船はもちろん海を渡るための移動の道具なのですが、道具ということを一度忘れて船を見てみると、自然法則に則った初源的な形を用いた、非常に芸術的なものであるということを、コルビュジェは言っています。

装飾や芸術を目的としていないものにも関わらず、そこには確かに新しい時代の芸術、現代の様式が存在しているということです。

「聖堂も側へ持ってゆけば矮小となるような宮殿」と評価しています。

では住宅はどうあればよいのか。
ここであの言葉が出てきます。

一つの家屋は一つの住むための機械である。

次に、住宅が工業製品のような新しい時代の様式を獲得するには、課題と標準を設定することが必要だと言います。

課題を設定する

コルビュジェは、飛行機は現代工業の中で最も優れたものと考えます。

飛行機の教訓は、論理の中にあるのだ。その論理によって課題を設定に導いたし、その実現を成功に導いたのである。

飛行機は、鳥のように飛びたいという課題ではなく、浮力と推進力の探求という課題を設定することにより、その課題を達成することができました。

当たり前のようですが、飛行機は飛ぶための機械として生まれたわけです。

「住むための機械」である住宅においても、飛行機の開発で行われたように、達成する課題を設定することが必要だと言います。

しかし今日の建築には課題が設定されていない。

そこでコルビュジェは建築の課題の設定を考えていきます。

特に「家屋」「部屋」「部屋数」については、

家屋

暑さ、雨、泥棒、慎みない人々からの庇護。太陽と光を受ける器。炊事、仕事、プライバシーのための若干の区切り。

部屋

自由に動ける面積、休養のためのベッド。休んだり仕事をしたりするための椅子。仕事のための机、「適所」にそれぞれ物を早く仕舞えるような若干の戸棚。

部屋はいくつ

炊事に一つ、食事に一つ、仕事に一つ、洗うために一つ、そして寝るために一つ。

今ではどれも当たり前になりましたが、当時の住宅にはどれもなかったと思うとちょっとすごいですね。

他にも住宅を住むための機械とするための膨大な提言が行われます。

標準を設定する

コルビュジェは標準化について、車を例にして説明します。

最初の車は馬車をモデルにして作られたそうですが、当然馬車の形態は、物体の速い移動に適した形ではありません。現在の車の形態と馬車の形態が大きく違うことからもそれは明らかで、より快適に速く移動できる形態として車は生まれたのです。

つまり、高速で移動するための機械を追求した結果、現在私たちが車と聞いてイメージする形態が生まれたということです。

そしてこれこそが標準であるとコルビュジェは言います。

標準を設定するとは、実利的なまた正常なあらゆる可能性を追及することで、機能に即応し、最大効果をあげ、最小労力で果たせるように、手間を、材料を、言葉を、形を、色を、音を考えるところからある型を引き出すことである。

開発の競争に打ち勝つために、標準の上に、仕上げや調和という美の要素が加わってくる。

そしてそこから様式が生まれるのだとコルビュジェは言います。

もちろん建築においてもそのようにあるべきだというわけです。

建築において、関心の量は、部屋や家具の配置、比例によって達せられる。建築家の仕事だ。

建築は標準の上に働きかける。標準は理性のものだ。分析の、緻密な研究のものだ。標準はよく設定された課題の上につくり上げられる。

量産家屋

ル・コルビュジェ】近代建築の5原則とは?反逆的建築? | まる旅 ...
ドミノシステム:https://kenchikuiroiro.com/building/kindaikennchiku5/より引用

現代における美、そして課題と標準の設定からコルビュジェが提唱するのが、住宅を工場製品のように量産するという考えです。

そのために、建築材料を自然のものから人工的なものへ置き換える必要があると言います。

つまり、品質や形にばらつきのある木材などの天然材を使うのをやめて、工場で規格生産された均質な材料を使うべきだとします。

その上で、それらの人工材は、建築現場で間に合わせでバラバラに使われるのではなく、一つの目的に合わせて用いられないといけないとします。

まさにベルトコンベアーで車が作られるように、建築も作られるべきだというわけです。

しかし一つ注意しなければいけないのは、コルビュジェは、量産型住宅こそが美しいと言っているわけではないということです。

量産住宅の考え方は、工業化された現代においての美に対する必要条件にあたるもので、美はこの上にしか成り立たないということを述べています。

もし感情と理性から、家屋に対する固定観念をひきはがして批判的客観的な観点からこの問題を検当するなら、道具的家屋、量産住宅の考えに到達するだろうし、だれにでも手に入れられて過去のより比較にならぬほど健全で(論理的にも)、われわれの生活を支えている仕事のための道具の美学に則った美しさをもったものになるだろう。

それはまたこれらの厳密で純粋な器官に芸術家のセンスが加えられて美しいものとして生かされるだろう。

おわりに

本書でコルビュジェが言いたいことを一文で言うと、以下のようになると思います。

今までの建築美は、科学と理性によって、現代では無秩序のものとなってしまった。根源的な自然法則への理解へと到達した私たちには、標準という型が必要であり、美というのはその上にのみ成り立つ。

美?これは測ることのできないもので、初源的な基礎、精神の合理的な満足(実用、経済)のはっきりした存在の上にしか起こり得ないものだし、さらに立方体、球、円筒、円錐等々(感覚的)の存在の上にしか起こり得ない。その上……測り知れないもの、すなわち才能自体、創造の才能、造形の才能、数学的才能、秩序統一などを測り知る能力、われわれの視覚を刺激し完全に満足させるすべての中にはっきりした法則を組織立てる能力等がつくり出す関係の上にしか生じない。

ここで、これまで見てきたように美というのは、自然法則に則った初源的な造形と合理的な目的、そして私たちの視覚を刺激する法則を見出す能力、の関係の上にしか成り立たないと言っています。

簡単に言ってしまうと、美の存在のための必要条件は分かるけど、最終的には才能だよね。なんてことを言っているわけです。

いやいや、結局才能かい!とツッコミたいところですね(笑)。

一つのものが要求を充しているとき、それは美しいのではない。われわれの精神のある一部、この部分の満足なしには他の後の満足を得られない類の部分を、満足させるだけだ。

コルビュジェの美は幾何学の上にしか起こり得ないというのは、現代の私たちからするといささか疑問ではあります。

しかしコルビュジェは「建築は住むための機械である」という言葉から、芸術や美というものを軽視しているように思われがち(僕は思っていた)ですが、実は物凄く美というものにこだわっていたことが分かりました。

それまで美しいとされていたものを疑い、工業的な進歩を遂げた現代における美を追求し、それを建築にまで持っていこうとしたわけですから。

ただ、コルビュジェが前提とした工学技師の美というのは、大量生産を可能とし、私たちが今それらを見ても、洗練さは感じても美しさは感じにくいのではないでしょうか。むしろ型にはまったシステムを想起させはしないでしょうか。

現代の理念でもある標準によって、建築に限らず世界が一つになろうとしている昨今ですが、僕には多様性が損なわれ、個がシステムに押しつぶされているように感じます。

コルビュジェが言う「工学技師の美」というのは、20世紀の産業社会を前提にしています。しかし、物に溢れて物質的には豊かになった私たちは、もう一度コルビュジェが言ったことを考え直さなければいけないと思います。

彼の試みや思い、少なくとも量産型住宅においては実現されたわけですが、彼が21世紀の私たちの住宅を見て、一体何を思うのでしょうか。

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